ワイキキ・ビーチは古戦場だった!? ワイキキの歴史に触れながらナビとお散歩しませんか?
ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ前のデューク・カハナモク・ビーチから見えるダイアモンドヘッド。
Aloha oukou(皆さんにアロハ)! ハワイナビです。今日は皆さんとワイキキ・ビーチの歴史に触れながら、周辺をぶらりぶらりとお散歩したいと思います。ご存知ですか? 実はワイキキ・ビーチとは、西はヒルトン・ハワイアン・ビレッジから、東はニューオータニ・カイマナ・ビーチ・ホテルまで、約3kmに渡る一連のビーチの総称なんです。だからお散歩といっても、ちょっとした体力が必要かも・・・覚悟してくださいね!?
まずは西から歩き始めましょう。
もっと広かった「ワイキキ」
今日ではビルの谷間に見えるか見えないかの山側ですが。
古代ハワイでいうワイキキとは、今日のワイキキより、かなり広い範囲を指していました。現在の地図でいうとアラモアナ・センター近くのピイコイ・ストリートあたりから山側へ、タンタラスの丘を越え、コオラウ山脈に沿って、ぐるっとオアフ島の東端のハワイカイまで。
古代、ヒルトン前のビーチから山側の渓谷を眺めることが出来ました。
いまでこそワイキキといえば、地理的にも気分的にも、ロコたちが生活を送るフツーのオアフ島から切り離された特別なエリア、になっています。が、はるか昔ワイキキのビーチに立つと、遮るものもないマキキ渓谷やパロロ渓谷、そしてマノア渓谷が目の前に広がっていました。
1928年アラワイ運河の完成によって小川は切断されその後消滅します。
パロロ渓谷やマノア渓谷から流れてくる小川が、現在でいうカパフル図書館あたりで合流し、その先で3つに分かれ、1つはワイキキ・ビーチ・マリオット・リゾート&スパ前の海へ。1つはロイヤル・ハワイアン・ホテルとモアナ・サーフライダー・ホテルの間の海へ。もう1つはヒルトン・ハワイアン・ビレッジやハレ・コア・ホテルのあるカリア・ロード前の海へと流れ込んでいたのです。
ロイヤル・ハワイアン・ホテルとモアナ・サーフライダー・ホテル前のビーチ。
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ハレ・コア・ホテルに隣接するハワイ陸軍博物館。このあたりに小川が。
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マノア渓谷 Manoa Valley
移住地を求め海を渡り、ワイキキを定住の地と定めた最初のポリネシアンたちは、すぐに、木や草の葉、鳥など居住に必要なものを求めて、マノア渓谷へ足を踏み入れるようになります。当時、ワイキキからマノア渓谷の裾野までは沼地を進み、おそらく2.4km、1時間ほどの道のりだったでしょう。人々の意識の中で、ワイキキは渓谷や山側と身近につながり、広がっていたのです。
ヒーリングスポット「カヴェヘヴェヘ」
ビーチには「Kawehewehe」のサインが。
オアフ島で一番格式の高いホテルといわれるハレクラニ・ホテル。その前あたりのビーチは古くはカヴェヘヴェヘと呼ばれたエリア。カヴェヘヴェヘ(Kawehewehe)とはハワイ語で「除去」を意味し、この前の海には病や痛みを除去する力があるとの伝承があります。
ハレクラニ・ホテル正面のビーチ。
実はここは海底より湧き出した真水(淡水)が海水と混ざる場所。そこに強力なヒーリングのパワーを見出した古代ハワイアンが、治癒を目的に水浴びを行う場所だったのです。昨今のスピリチュアルブームで、パワースポットとして旅行者の間にも知られた存在になってきました。
このカヴェヘヴェヘ。あるハワイの歴史家によると、その名前の意味は「浅瀬礁への抜け穴」ともいわれています。サーファーがより深い海へと出るための狭い水路があったのだとか。ここにまつわるロマンスをご紹介しましょう。
カラマクアとケレアの伝説
古代ワイキキには7つのヘイアウがありました。
ハワイの歴史は文字で残ったものではなく、口承によるもの。だから、はっきりとした時代はわかっていませんが、おそらく13世紀か14世紀ごろのこと。ワイキキでのサーフィンは、首長たちのみならず、女性や子供も含む一般のハワイアンにもとても人気がありました。ダイアモンドヘッドの麓には、ナル(ハワイ語の「サーフ」「打ち寄せる波」)やサーファーに捧げるヘイアウ(ハワイ古代宗教の祭祀場)があったほど。
いにしえより首長や王に親しまれてきたサーフィン(He'e Nalu)。
そのワイキキに、タロ水田を作ることに非常に長けた、カラマクアアカイプホルア(略称カラマクア)という大首長がいました。カラマクアはまた、サーファーとしても抜きん出ていました。彼は代々優れたサーファーを生み出した家系の出身で、サーファーとしての知識や技能、そしてマナ(ハワイ語で「魂」「スピリット」)を先祖より受け継いできたのです。
ワヒアワ Wahiawa
ある日、ワヒアワ(ハワイの中央部)に住む女首長、ケレアヌイノホアナアピアピ(略称ケレア)が数人の侍女とワイキキを訪れ、カヴェヘヴェヘ入りました。滑らかな肌と輝くような瞳を持ったケレアをワイキキの住人たちは歓迎し、ココナッツを勧めました。
古代ハワイアンからはカハロア Kahaloaと呼ばれていました。
ケレアはワイキキを、「これまで見た中で最も好ましい場所」と褒め、住人たちは、「ここは楽しむための場所です。このカハロアでは首長たちや、大首長のカラマクアがサーフィンをする光景が見られます」と、説明しました。カハロアは現在のハレクラニ・ホテルとロイヤル・ハワイアン・ホテルの間のビーチ。ハワイ語で「長い場所」を意味し、香り高いリポアという海藻が生えていることで知られていました。
19世紀に入るころにはワイキキでのサーフィンは廃れていました。
するとケレアはサーフボードを貸してほしいと言いました。ワヒアワに住む人間がサーフィンをするとは思いもよらなかった住人たちは驚きましたが、こんなに美しいゲストにノーを言えるはずもありません。実はケレアはもともとマウイ島の出身で熟練のサーファーだったのです。いかにも簡単そうに、音もなくサーフボードを漕ぎ出すケレア。ケレアはファーストブレイクで始めることはせず、1番目、2番目、3番目と波をやり過ごし、4番目の波で一気に海岸まで乗りました。その見事な技に観客たちは称賛の大騒ぎ。
昔、ワイキキの大半はタロ水田や養魚池でした。
その頃、タロ水田で働いていたカラマクアは従者にあの騒ぎは何だと尋ねました。
「住人たちが、女性サーファーの素晴らしい波乗りに驚いているのです」
それを聞いたカラマクアはその女性サーファーの姿を見るためにビーチへ走りました。ひとめ見て、それがサーフィンの力量で有名なマウイ島出身の女首長であると見抜いたカラマクア。岸へたどり着いた彼女のサーフボードを支えながら、「貴女はケレアか?」と尋ねました。「ええ」と答えたケレア。カラマクアは自らのフェザーケープを外し、ケレアの素晴らしい裸体に掛けました。二人は結ばれ、ケレアはワイキキの大首長の妻となったのでした。
戦場になったワイキキ・ビーチ
ロイヤル・ハワイアン・ホテル
ロイヤル・ハワイアン・ホテルがあるのは、代々のハワイの首長や王族の宮殿(といっても、それぞれ「宮殿」と呼ぶには似つかわしくない質素なスタイルでしたが)が建てられていた場所。一説によると、ロイヤル・ハワイアン・ホテルの敷地内でも、ホテルの山側、またロイヤル・ハワイアン・センターの海側に位置する、中庭がそうだったとか。
ロイヤル・ハワイアン・センターの中庭「ロイヤルグローブ」奥のホテル敷地内に宮殿が。
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多くの歴史を秘めたワイキキ・ビーチ。
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ダウンタウンに立つカメハメハ大王像
ワイキキ・ビーチは一時期、戦場になったこともあります。1795年、ハワイ全島の統一を目指したカメハメハ1世がオアフ島を征服せんと、ハワイ島から、1,200ほどのカヌーと10,000もの兵士を連れて上陸したのがワイキキ・ビーチだったのです。
その際にはヒルトン・ハワイアン・ビレッジのあたりから、カハラ・ホテル&リゾート周辺のビーチまで、カメハメハ軍で埋め尽くされただろうといわれています。
追いつめられたカラニクプレ軍の兵士が次々と落ちていったとされるヌウアヌ渓谷。
対するオアフ島のカラニクプレ大首長は、首都であったワイキキを守ることはせず、ワイキキからおよそ6.4km離れたヌウウアヌ渓谷に布陣を置きます。大砲を有するカメハメハ軍に対して、大砲の輸送に手間取るであろう山側のほうが戦いに有利に働くと考えた末のことでした。
皆さんご存知のとおり戦いはカメハメハ軍の勝利に終わり、カラニクプレはその後コオラウ山脈に逃げおおせますが、数カ月後とうとう捕えられ、殺されてしまいます。遺体はワイキキにあるヘイアウに戻され、カメハメハの信ずる軍神クカイリモクに捧げられたといわれます。
ポリネシアンが最初にワイキキに移住したのは西暦300年~600年と推定されています。
お話しているうちに、お散歩が長引いてしまいました。お疲れでしょうか?まだまだワイキキには様々な言い伝えや歴史が残されていますが、今回はこのへんで。また機会があれば、お話させてくださいね。以上、ハワイナビでした!
ワイキキ・ビーチにはいまでも、そこに住んでいた首長や王のマナが残ると信じているハワイアンもいます。
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記事登録日:2010-11-30