太平洋航空博物館パールハーバー

パシフィック・アビエーション・ミュージアム・パールハーバーPacific Aviation Museum Pearl Harbor

閉店・移転、情報の修正などの報告

戦時中の日米の戦闘機を復元。ニイハウ島事件についての展示もあります。太平洋戦争の歴史を訪ねましょう。航空機や戦闘機ファンは必見!

エ・コモ・マイ(ハワイ語で「ようこそ、いらっしゃい」)、ハワイナビです。
アリゾナ記念館や戦艦ミズーリで知られるパールハーバー(真珠湾)・ヒストリック・サイト。
アメリカ本土からの観光客には大変人気のあるスポットですが、日本人にとっては複雑な気持ちを抱かざるを得ない、真珠湾攻撃の舞台となった場所です。
展示はハンガー37とハンガー79の2カ所に。ハンガーとは格納庫のことです。

展示はハンガー37とハンガー79の2カ所に。ハンガーとは格納庫のことです。

太平洋航空博物館 パールハーバー ハンガー37

太平洋航空博物館 パールハーバー ハンガー37

その中に2006年12月、「太平洋航空博物館パールハーバー」がオープンしたことはあまり知られていません。
真珠湾中央に位置するフォード島のハンガー37とハンガー79は、1941年12月7日の真珠湾攻撃時に使用されていた格納庫(ハンガー)。真珠湾攻撃での損傷をまぬがれたこれらの格納庫を改修。広い館内で、大日本帝国海軍の零戦21型や、アメリカ海軍グラマンF4F-3ワイルドキャット、日本本土への初空襲を実行したドーリットル隊のB-25ミッチェルなど、貴重な機体を間近に見ることが出来る、航空機や戦闘機ファンには必見の博物館です。
ニイハウ島事件は英語で「Niihau Incident」。

ニイハウ島事件は英語で「Niihau Incident」。

こちらにはまた、知る人ぞ知る真珠湾攻撃秘話「ニイハウ島事件」に登場する、実物の零戦・・・の残骸が展示されています。今日は、ニイハウ島事件をご紹介しながら、館内を回ってみましょう。

パールハーバー・ヒストリック・サイト Pearl Harbor Historic Sites

アリゾナ記念館や戦艦ミズーリがあるパールハーバー・ヒストリック・サイトはここを左折。

アリゾナ記念館や戦艦ミズーリがあるパールハーバー・ヒストリック・サイトはここを左折。

「太平洋航空博物館 パールハーバー」があるフォード・アイランドは米軍施設ですので、直接自分で行くことは出来ません。アリゾナ記念館がある「パールハーバー・ヒストリック・サイト」から、施設内を巡る無料シャトルバスに乗車して向かいます。
パールハーバー・ヒストリック・サイト

パールハーバー・ヒストリック・サイト

施設に関する案内板

施設に関する案内板

セキュリティーゲートを通って中へ。

セキュリティーゲートを通って中へ。

インフォメーションセンターで各施設のチケットを購入します。

インフォメーションセンターで各施設のチケットを購入します。

チケットを購入したら無料シャトルバス乗り場へ。

チケットを購入したら無料シャトルバス乗り場へ。

少し歩いた先に・・・

少し歩いた先に・・・

乗り場があります。

乗り場があります。

入口でチケットを見せると手首にリストバンドを巻いてくれます。

入口でチケットを見せると手首にリストバンドを巻いてくれます。

進んだ右手にミニシアター。日本人としてはいたたまれない真珠湾攻撃のドキュメント映画(英語)が上映されます。

進んだ右手にミニシアター。日本人としてはいたたまれない真珠湾攻撃のドキュメント映画(英語)が上映されます。

何やら楽しげ。1940年代のハワイ。

何やら楽しげ。1940年代のハワイ。

ここを通り抜けると・・・

ここを通り抜けると・・・

いきなり零戦が!ニイハウ島事件の主人公となる西開地重徳一飛曹が、真珠湾攻撃の第二次攻撃隊制空隊として、零戦の操縦席に乗りこむ姿の再現です。

いきなり零戦が!ニイハウ島事件の主人公となる西開地重徳一飛曹が、真珠湾攻撃の第二次攻撃隊制空隊として、零戦の操縦席に乗りこむ姿の再現です。

ニイハウ島事件――始まり――

実際に真珠湾攻撃に参加した零戦ではなく、ソロモン諸島パラレ島の密林から回収された残骸から零戦21型へと復元されました。

実際に真珠湾攻撃に参加した零戦ではなく、ソロモン諸島パラレ島の密林から回収された残骸から零戦21型へと復元されました。

真珠湾攻撃の第二次攻撃隊制空隊として空母「飛龍(ひりゅう)」を飛び立った、愛媛県今治市出身の西開地重徳(にしかいちしげのり) 海軍一等飛行兵曹(略称「一飛曹」)は、当時21歳。敵機を撃墜したものの、自らの零戦も燃料タンクなどに被弾します。
真珠湾がどのように「奇襲」攻撃されたかの説明パネル。見るのがツライ・・・。

真珠湾がどのように「奇襲」攻撃されたかの説明パネル。見るのがツライ・・・。

1時間にわたる攻撃のあと、西開地一飛曹は、もう1機とともに、戦列から遅れてしまいます。もう1機に搭乗していた石井三郎二飛曹は、ニイハウ島上空で海に突っ込み自爆しますが、西開地は、緊急着陸地として事前に通達を受けていたニイハウ島へ不時着する道を選びます。緊急着陸後は、潜水艦が救助に来ると聞かされていました。
タイトルもズバリ「THE NIIHAU INCIDENT」。事件についてのノンフィクションです。

タイトルもズバリ「THE NIIHAU INCIDENT」。事件についてのノンフィクションです。

ここでニイハウ島についてご説明しますね。
カウアイ島の南西約29kmに位置する総面積180平方kmのニイハウ島は、当時もいまも、個人所有の治外法権の島。1846年、ニュージーランド出身のエリザベス・シンクレア未亡人、のちのエリザベス・シンクレア・ロビンソン夫人が、カメハメハ5世から、ピアノ一台と、1万ドルぶんの金(ゴールド)で、ニイハウ島(と、カウアイ島の一部)を島民付きで購入しました。2011年現在も、島の所有者はその子孫であるロビンソン一族であり、ロビンソン一族の許可なしで上陸することは出来ません。島民が島を離れる場合にも制限があります。電気も水道もガスもなく、通用する言葉はハワイ語。シンクレア・ロビンソン夫人の遺言を守り、島民は昔ながらの暮らしぶりを送っています。
館内の説明には「NI'IHAU ZERO INCIDNET(ニイハウ島零戦事件)」と。

館内の説明には「NI'IHAU ZERO INCIDNET(ニイハウ島零戦事件)」と。

日本軍が不時着の場所としてニイハウ島を選んだのは、無人島だと思い込んでいたからとも、白人(アメリカ人)のいない島だからともいわれています。当時の島民数は約130人。2011年現在は約250人です。
なだらかな牧草地への胴体着陸に成功したものの、西開地一飛曹は一時気を失ってしまいます。そこへ一番最初に駆け付けたのが、当時のニイハウ島当主アイルマー・ロビンソンからの信頼も厚かったハワイ島出身のハワイアン、ハワード・カレオハノ。ニイハウ島ではまだ真珠湾攻撃の事実は知られていませんでしたが、英語を母国語とし、頭も働くカレオハノは、西開地が身に着けていた拳銃と紙片を抜き取ります。
2006年、博物館のオープンに際し、ハワイ州政府とロビンソン一族の協力のもと、西開地一飛曹機の残骸の大規模な捜索と回収が行われました。西開地によって火を放たれたあと、焼け残った重要部分は米軍が回収。エンジンは島民が保管。残りは65年間、野ざらしになっていました。

2006年、博物館のオープンに際し、ハワイ州政府とロビンソン一族の協力のもと、西開地一飛曹機の残骸の大規模な捜索と回収が行われました。西開地によって火を放たれたあと、焼け残った重要部分は米軍が回収。エンジンは島民が保管。残りは65年間、野ざらしになっていました。

不時着した際の周りの様子を再現。

不時着した際の周りの様子を再現。

一方で、目覚めた西開地には友好的に接し、自宅へ連れ帰り妻の手料理をふるまうなどします。が、紙片が無いことに気づいた西開地が返却を求めるも、これを拒否。英語の読み書きは可能な西開地でしたが、込み入った会話は難しく、カレオハノは、ニイハウ島に存在していた3人の日本人のうち、広島県賀茂郡出身の日系1世、新谷石松(シンタニ・イシマツ)を通訳として呼びます。が、日米開戦を予感していた新谷は、深く関わることを嫌がり、西開地とわずかな会話を交わしただけでその場を立ち去ります。
日米のWEB掲示板で「映画化希望」と書き込みが。国が違っても考えることは同じ。

日米のWEB掲示板で「映画化希望」と書き込みが。国が違っても考えることは同じ。

次に呼ばれたのが、カウアイ島生まれの日系2世、原田義雄(ハラダ・ヨシオ)です。両親は福島県からの移民で、当時すでに福島へ戻っていました。原田が妻ウメノや3人の子供と一緒に、カウアイ島からニイハウ島へ移住したのはこの時点より3年前のこと。親戚が、島の帳簿係を探していたアイルマー・ロビンソンに、原田を紹介したのです。ロビンソンに気に入られた原田は、「金を貯めてアメリカ本土へわたるチャンス」と、気の進まないウメノを説得します。原田は若い頃一時、カリフォルニアに住んでいました。ロクな教育も医療施設もない。流刑地のようだと反対していたウメノですが、結局は夫に従ったのでした。

真珠湾攻撃が行われたのは日曜日の朝。ウメノは原田の散髪をしており、2人とも、数多くの日本の戦闘機が北へ向かっていくのを目撃。うち1機が島に墜落したのも気づいていました。カレオハノ宅に呼ばれた原田は、西開地と日本語で会話。周りのハワイアンが日本語を話せないことを確認したうえで、西開地は、真珠湾を攻撃したことを打ち明けます。
そうとも知らないハワイアンたちは、西開地を隣家へ連れ込み、ポイやカルアピッグをご馳走し、歌い踊るなどして、ハワイ流に「客人」をもてなします。ギターを差し出された西開地は、まるで三味線のように爪弾き、日本の歌を歌ったと伝えられます。
真珠湾攻撃の展示の多さに、「リメンバー・パールハーバー」の言葉が頭をよぎります。

真珠湾攻撃の展示の多さに、「リメンバー・パールハーバー」の言葉が頭をよぎります。

その晩、電池式のラジオによって、真珠湾攻撃は島民たちの知るところになりました。何事にも当主アイルマー・ロビンソンの指示を仰いでいた島民たちは、翌朝ニイハウ島を訪れることになっていたロビンソンに、西開地を任せればいいと判断します。普段はカウアイ島に暮らすロビンソンは、週に一度、ボートでニイハウ島を訪れるのが習慣でした。ところが翌月曜日、さらにそれ以降も、ロビンソンはやってきませんでした。実は、真珠湾攻撃の数時間後、アメリカ軍が一般の海上交通を禁止したのです。ロビンソンは、島民がランタンと反射板を使ってカウアイ島へ送るシグナルによって、何かしらの問題が起こったことを把握していましたが、島へ向かうことは出来ませんでした。

ロビンソンの不在に島民たちは困惑と不安を募らせます。原田の提案で、原田宅に滞在していた西開地もまた、見捨てられてはいない、潜水艦は来る・・・わずかな望みを抱きつつ、焦燥感を募らせていました。
この間、西開地と原田の間でどのような心の交流があったのか。良きアメリカ人、良き島民とされていた原田の心がどう変化していったのか。他人に推し量ることはできません。多少なりとも理解していたに違いない原田の妻ウメノは、後日、我が子にも事件について語ることはありませんでした。

ニイハウ島事件――終焉――

不時着した日から65年を経て、回収できたのは主翼の一部のみ。

不時着した日から65年を経て、回収できたのは主翼の一部のみ。

その後の展開を羅列します。
○西開地と原田は、新谷石松を通して、カレオハノから、抜き取られた紙片を取り戻そうとした。(非協力的だった新谷がなぜここに至って西開地らを助ける行動に出たかも、また謎です)新谷は、紙片と引き換えに島民には法外な高額である200ドルを申し入れたが、断られた。
○新谷の試みが成功するとは思っていなかった西開地は、散弾銃と拳銃を入手。
○西開地は、「間もなく上陸するであろう大日本帝国海軍にわたしてほしい」と、自分の名前、階級、出身を書いたメモをウメノに預けた。
ニイハウ事件の展示は以上です。格納庫を改造しただけあって広い館内。

ニイハウ事件の展示は以上です。格納庫を改造しただけあって広い館内。

○西開地と原田は、新谷が去ったあとのカレオハノ宅を訪れ、発砲。カレオハノはあわてて逃げ、ほかの島民にニイハウ島を離れないと危険だと言ったが、当初、島民たちは、いつも穏やかで親切な原田が発砲したとは信じなかった。
○カレオハノとほかに5人の島民は、ロビンソンの助けを求めに、救命ボートに乗ってカウアイ島へ向かった。
○西開地と原田は、抜き取られた紙片がカレオハノ宅に隠されているかもしれないことを考慮し、カレオハノ宅に火を放った。また、零戦がアメリカ軍の手にわたることを憂慮し、機体にも火を放った。
ミッドウェイ海戦の展示もあり。

ミッドウェイ海戦の展示もあり。

○西開地と原田からの発砲を恐れて避難していた島民のうち、3人の島民が食料を取りに村へ戻り、西開地と原田に捕まる。
○人質にされた3人のうち、1人は脱出に成功。残されたのは、ベン・カナヘレとその妻エラ。西開地と原田はベンにカレオハノを見つけ出すことを命じる。ベンは、カレオハノがニイハウ島から脱出した事実を伏せ、彼を探すふりをする。
マネキンの衣装(軍服)も凝っています。

マネキンの衣装(軍服)も凝っています。

○人質として残った妻の身を案じて戻ったベン。ベンとエラは隙を見て、西開地に飛びかかる。
○原田がエラを西開地から引き剥がし、西開地はベンに向かって3回発砲。ベンは左胸、左臀部、股間に銃弾を受けながら、西開地の首根っこと脚をつかみ、石壁に向かって投げつけた。エラは気絶した西開地の頭に石を打ちつけ、さらにベンはハンティングナイフで西開地の首を切り裂いた。のちにベンは、「オレは怒り狂っていたんだ!」と、証言している。
○西開地が殺害された様を目にした原田は散弾銃で自害。
西開地一飛曹と原田が最期を迎えたのは、真珠湾攻撃から6日目のこと。アイルマー・ロビンソンがカレオハノやほかの島民たちとニイハウ島へ到着したのはその翌日のことでした。

ニイハウ島事件――後日談――

戦闘機の写真を撮りまくる男性陣、多し。

戦闘機の写真を撮りまくる男性陣、多し。

西開地一飛曹(戦死後少尉に特進)と原田の最後については、証言者が限られていることもあり、諸説あります。ハワード・カレオハノと、ベン・カナヘレは、のちに、この事件で果たした英雄的な役割をアメリカ陸軍から表彰されます(ベン・カナヘレにはルーズベルト大統領からの感謝の言葉も贈られました)。新谷石松は、拘留されたのちアメリカ本土の強制収容所に送られますが、無実と見なされ釈放。ニイハウ島の家族のもとへ帰ります。
キッズに人気の戦闘シュミレーション。

キッズに人気の戦闘シュミレーション。

原田義雄の妻ウメノは2年7カ月の拘留ののち、(国家反逆罪など)罪に問われないまま釈放。ニイハウ島へ残した財産のほとんどが島民の手にわたっていることを知り、アイルマー・ロビンソンに財産を取り戻すことを相談するも、「キミたち夫婦には島民を信用するなと言っておいたはずだ」と、冷たい態度を取られます。ウメノは財産を取り戻せないまま、カウアイ島で洋裁店を営みながら苦労を重ねて3人の子供を育て上げます。戦後、ウメノが西開地の実家へ手紙を送り、また西開地の弟がカウアイ島のウメノを訪ねるなどの交流もありました。
こじゃれたセルフサービスのカフェ&レストランあり。

こじゃれたセルフサービスのカフェ&レストランあり。

飛行予科練習生時代の同級生によると、「明るく活発」。実家の母親によると、「朝、目が覚めると、重徳がお茶を沸かしている音がする。『男が台所に立つもんじゃない』と言うと、『ボクがご飯を炊くよ。そうすれば母さんはもう少し寝ていられる』と。洗濯しているのを見つけ『男が洗濯なんてするもんじゃない』と言うと、「ボク、洗濯好きなんだ」と。少年の頃から母親思いの息子でした」。
しっかりとした食事や、コーヒー&スイーツもいただけます。

しっかりとした食事や、コーヒー&スイーツもいただけます。

そんな西開地一飛曹の遺体は、1946年、「無名敵兵」としてニイハウ島からカウアイ島へ送られたのち、日本へ戻り、神奈川県で無名戦没者として葬られます。1956年になって、その遺灰が愛媛県今治市波止浜の西開地の実家へと帰りましたが、西開地一飛曹の御母堂は1947年、「重徳、重徳」と、その名を呼びながら亡くなっていました。
公式ウェブサイトには、ハンガー79の見学は「飛行士ツアー」に参加の場合のみ、とありますが、2011年3月現在、ツアーでなくても自由に見学できるようになっています。

公式ウェブサイトには、ハンガー79の見学は「飛行士ツアー」に参加の場合のみ、とありますが、2011年3月現在、ツアーでなくても自由に見学できるようになっています。

西開地一飛曹がカレオハノに奪われた紙片は、アメリカ軍の発表によると、暗号表、航空図、航法諸元を記したメモ、とされていますが、真珠湾攻撃に参加した戦闘機は、暗号表や航法諸元は携行せず、航空図も機密を要するほどのものではなかったとか。ただ、若年のパイロットの場合、母艦の位置を書き込んでいた可能性があり、それが西開地が死を賭して取り戻そうとした理由ではないかといわれています。
ギフトショップに寄るのも忘れずに。

ギフトショップに寄るのも忘れずに。

オリジナルTシャツもデザインが豊富。

オリジナルTシャツもデザインが豊富。

真珠湾攻撃を報じる当時の新聞の復刻版も。

真珠湾攻撃を報じる当時の新聞の復刻版も。

ハンガー37からハンガー79へ

映画『トラ・トラ・トラ!』や『パール・ハーバー』にも登場する管制塔。

映画『トラ・トラ・トラ!』や『パール・ハーバー』にも登場する管制塔。

ここまでがハンガー37。ハンガー37を見終わったら、いったん外へ出て、ハンガー79へ歩いていきます。
2、3分のお散歩です。

2、3分のお散歩です。

見えてきました。

見えてきました。

コレって、空の敵機めがけて、ガガガガガ・・・ってヤツですよね。

コレって、空の敵機めがけて、ガガガガガ・・・ってヤツですよね。

広い!航空機&戦闘機マニアにはたまらない空間ではないでしょうか?

広い!航空機&戦闘機マニアにはたまらない空間ではないでしょうか?

ノースアメリカンF-86Eセイバー

ノースアメリカンF-86Eセイバー

日英両語で説明があるのがグッドです!

日英両語で説明があるのがグッドです!

ベルUH-1イロコイ

ベルUH-1イロコイ

戦闘機にも軍用機にも・・・

戦闘機にも軍用機にも・・・

これまでなんの興味もなかったナビですが・・・

これまでなんの興味もなかったナビですが・・・

見て回っているうちに、なんとなくコーフン!

見て回っているうちに、なんとなくコーフン!

戦争映画で見たよな機体が目の前に。 戦争映画で見たよな機体が目の前に。 戦争映画で見たよな機体が目の前に。

戦争映画で見たよな機体が目の前に。

真珠湾攻撃時、パールハーバーの空を守っていたのが、こちら。カーチスP-40キティホーク。当時のアメリカ航空機業界を代表するカーチス社製。キャラが立ってますよね・・・アメリカってホント、キャラクターを生み出すのが上手い。

真珠湾攻撃時、パールハーバーの空を守っていたのが、こちら。カーチスP-40キティホーク。当時のアメリカ航空機業界を代表するカーチス社製。キャラが立ってますよね・・・アメリカってホント、キャラクターを生み出すのが上手い。

戦闘機なんて・・・と敬遠するお母様もいらっしゃるかと思いますが、男の子、かなり喜びそうです。 戦闘機なんて・・・と敬遠するお母様もいらっしゃるかと思いますが、男の子、かなり喜びそうです。 戦闘機なんて・・・と敬遠するお母様もいらっしゃるかと思いますが、男の子、かなり喜びそうです。

戦闘機なんて・・・と敬遠するお母様もいらっしゃるかと思いますが、男の子、かなり喜びそうです。

ボーイングB-52Eストラトフォートレス

ボーイングB-52Eストラトフォートレス

内部が見られます。

内部が見られます。

ハンガー79

ハンガー79

ワイキキから、パールハーバー・ヒストリック・サイトへは、渋滞へ巻き込まれなければ、車で約30分の距離。市バス(ザ・バス)を利用して乗り換えなしの直通で行くことも出来ます。クヒオ・アベニュー山側の停留所から、20番か42番バスに乗車して、「アリゾナ・メモリアル Arizona Memorial 」で下車してください。
以上、ハワイナビでした!
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記事登録日:2011-03-31

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上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

スポット登録日:2009-09-16

スポット更新日:2011-03-31

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