遺跡と史跡で知るひと味違うノースショア!

サーフィンだけじゃないんです。ノースは遺跡や史跡もスゴイんです。ナビと一緒に回ってみましょう!

オアフ島を訪れる旅行者の約半数がノースショアへ足を運ぶという統計が。

オアフ島を訪れる旅行者の約半数がノースショアへ足を運ぶという統計が。

アロハ~、ハワイナビです。今日はオアフ島ノースショアへ出かけましょう!

ノースショア、通称ノースはご存知、伝説のサーフタウン。
「わずか7マイルのミラクル」
サーフボードシェイバーであり、ノースの海で繰り広げられる世界的なサーフィン大会「トリプル・クラウン」のディレクターでもある、ハワイサーフィン界の立役者、ランディ・ラリック氏は、ノースショアを、そう呼びます。ハワイの田舎にあるたった7マイルほどの海岸沿いが、巨大な波と世界中の人々を引きよせる事実は、まるで奇跡だと。
『サーフィン・U.S.A.』で歌われたワイメア・ベイ。

『サーフィン・U.S.A.』で歌われたワイメア・ベイ。

ノースが「サーフタウン」として知られるようになったのは、1960年代に入ってから。1950年代後半、カリフォルニアのサーファーたちが、ワイメア・ベイの巨大な波を「発見」したのが始まりで、その名声は、ザ・ビーチ・ボーイズ1963年の全米ヒット曲『サーフィン・U.S.A.』、さらには1966年のサーフィンドキュメンタリー映画『エンドレス・サマー』で決定的に。アメリカではその後も今日にいたるまで、ノースを舞台とした映画やテレビドラマが数多く制作され続けています。

それじゃ、「サーフタウン」になる前のノースって、なんにもない、ただの田舎だったの?
そのへんをカンタンにご説明しながら、今回は「サーフィンとは関係ないノースショア」を見ていくことにしましょう!(ここまでサーフィンの話で引っ張っておいて、サーフィンとは関係ないって・・・スミマセン)

リリウオカラニ・プロテスタント・チャーチ Liliuokalani Protestant Church

レインボー・ブリッジの名称のほうが正式名称よりも有名に。

レインボー・ブリッジの名称のほうが正式名称よりも有名に。

ノースショアを代表する町ハレイワにある、通称レインボー・ブリッジ、またはハレイワ・ブリッジの下を流れてハレイワ湾に流れ込んでいるのが、アナフル川。橋の正式名称も実はアナフル・ブリッジです。
「アロハ・オエ」の作者としても知られるハワイ王朝最後の君主、リリウオカラニ女王の別荘が、このアナフル川沿いにありました。(女王はアナフル川で泳ぐのを好んだとか)別荘滞在中に女王が礼拝に訪れたのが、こちらの教会です。ただし当時はワイアルア・チャーチと呼ばれていました。
ワイアルア・チャーチはアメリカ人宣教師エマーソン夫妻が1832年に設立。1820年から1848年まで、ニューイングランドを中心とするアメリカから、プロテスタントの宣教師団が計12回ハワイへやってきましたが、エマーソン夫妻は5回目の宣教師団の一員でした。
再現された典型的なヘイアウのレイアウト。(ビショップ博物館)

再現された典型的なヘイアウのレイアウト。(ビショップ博物館)

ときはカメハメハ3世の治世。ハワイの古代宗教やカプ(タブー)システムは、西洋化を支援するカメハメハ2世時代の1819年に廃止令が出されており、ハワイアンのキリスト教化が少しずつ進んでいました。カメハメハ2世(リホリホ王)に、古代宗教と、そのヘイアウ(祭祀場)や偶像の廃止を勧めたのは、カメハメハ大王の寵妃でありカメハメハ2世の摂政であったカアフマヌ皇太后と、カフナ・ヌイ(ハワイ古代宗教の大神官)、ヘヴァヘヴァです。
ビショップ博物館に展示された代々のハワイ王朝君主の肖像画。左からカメハメハ大王(1世)、2世、3世。

ビショップ博物館に展示された代々のハワイ王朝君主の肖像画。左からカメハメハ大王(1世)、2世、3世。

ただ、カメハメハ2世は最後までキリスト教に改宗することはありませんでした。一説によると、5人の妻を持っていたカメハメハ2世は、改宗することによって一夫多妻をあきらめたくなかったのだとか。
エマーソン夫妻がノースショアに赴任した際には、すでにハワイアンによって運営されていたプロテスタント教会(もどき)が存在していたそうです。
ワイアルア・チャーチには、キリスト教徒になっていた晩年のヘヴァヘヴァも通ったそうですヨ。
ハレイワの町中、「マツモト・シェイブアイス」の向かいにあるのが、リリウオカラニ・プロテスタント・チャーチ。

ハレイワの町中、「マツモト・シェイブアイス」の向かいにあるのが、リリウオカラニ・プロテスタント・チャーチ。

ロコ・エア・フィッシュポンド Loko Ea Fishpond

左に見える「サーフンシー」の反対側がロコ・エア・フィッシュポンド。フェンスに黒いカバーが掛けられています。

左に見える「サーフンシー」の反対側がロコ・エア・フィッシュポンド。フェンスに黒いカバーが掛けられています。

ハレイワの町の出入口に位置するアナフル・ブリッジ(レインボー・ブリッジ)からすぐ。名物サーフショップ『サーフンシー Surf-n-Sea』のななめ向かい。有名レストラン『ジェイムソンズ・バイ・ザ・シー Jameson’s By the Sea』のお隣、という立地のわりに、地味な存在で、ハレイワを訪れる多くの旅行者の中にも、前で立ち止まって見る人は皆無といっていいほど。フェンスに囲まれた私有地であり、案内板や石碑があるわけでもないので当然かもしれません。
ロコ・エア・フィッシュポンドの前にはバス停が。

ロコ・エア・フィッシュポンドの前にはバス停が。

が、特に人目を引かないこの池は、オアフ島15代目の王(大首長)カクヒヘヴァ治世から残るとされる養魚池。ラニワヒネというモオ(オオトカゲ)の女神が住むとも、サメの神ニウカラやウナギの神プヒラウの住まいだとも伝えられています。
カアフマヌ妃、カメハメハ3世、エマ女王、リリウオカラニ女王など、代々、王家の人間の所有地でした。現在はカメハメハ・スクール(ビショップ財団)の所有になっています。

カアフマヌ妃、カメハメハ3世、エマ女王、リリウオカラニ女王など、代々、王家の人間の所有地でした。現在はカメハメハ・スクール(ビショップ財団)の所有になっています。

ワイメア・バレー Waimea Valley

「カフナ(神官)たちの渓谷」とも呼ばれたワイメア・バレー。

「カフナ(神官)たちの渓谷」とも呼ばれたワイメア・バレー。

現在、ワイメアの歴史と文化、自然を保護し、伝えることを目的とした自然歴史公園になっているワイメア・バレーは、11世紀、当時のオアフ島の王(大首長)が、カフナ・ヌイの地位にあったロノ・ア・ヴォヒに与えた土地。以来8世紀にわたって、代々のカフナ・ヌイが居住、統治をしてきました。1975年、ハワイ島の統治者であったカメハメハ大王がオアフ島を征服すると、大王はワイメア渓谷を、最も信頼していたカフナ・ヌイであった先述のヘヴァヘヴァへ下賜します。
19世紀後半に起こった大規模な洪水によって、それまで居住していたほとんどのハワイアンたちは、ワイメア渓谷を去ったとか。

19世紀後半に起こった大規模な洪水によって、それまで居住していたほとんどのハワイアンたちは、ワイメア渓谷を去ったとか。

ヘヴァヘヴァが実際にワイメア渓谷へ居住したのは1826年頃といわれ、亡くなったのは1837年。ヘヴァヘヴァのお墓はいまも、ワイメア・バレーのビジターセンター近くに見ることが出来ます。また、一般が立ち入ることの出来ない渓谷の奥には、未だ発見されていない古代ハワイアンの埋葬地や遺跡が数多く残るといわれています。
アメリカの人気テレビシリーズ『LOST』の撮影地にもなったワイメア・フォールズ。古代ハワイアンはこの水にヒーリングパワーがあると信じていました。水は渓谷の土壌に含まれる酸化鉄のため赤く濁っています。

アメリカの人気テレビシリーズ『LOST』の撮影地にもなったワイメア・フォールズ。古代ハワイアンはこの水にヒーリングパワーがあると信じていました。水は渓谷の土壌に含まれる酸化鉄のため赤く濁っています。

プウ・オ・マフカ・ヘイアウ Puu O Mahuka Heiau

プウ・オ・マフカ・ヘイアウの入口。ここからさらに見通しの悪い舗装路を車で2、3分。

プウ・オ・マフカ・ヘイアウの入口。ここからさらに見通しの悪い舗装路を車で2、3分。

ワイメア・ベイを見下ろす海抜およそ3,000フィート(914m)の丘にその遺跡が残る、オアフ島最大のヘイアウ(古代ハワイ宗教の祭祀場)です。2エーカー(約8,094平方m)近くもあるヘイアウは3つに分かれる一連の石垣から出来ており、東側の高い位置にある石垣が17世紀、残りの石垣は18世紀の建造だと推察されています。統治者が変わるとヘイアウの拡張や改造が行われることはよくあったとか。
プウ・オ・マフカとはハワイ語で「hill of escape(逃亡・脱出の丘)」の意。

プウ・オ・マフカとはハワイ語で「hill of escape(逃亡・脱出の丘)」の意。

オアフ島の首長ランクの女性の出産場所であったとも伝えられますが、18世紀後半には、戦勝を祈願し軍神クカイリモクに生贄を捧げるルアキニ・ヘイアウとして使用されていたようです。
1795年、ハワイ島の王だったカメハメハ1世がオアフ島を征服した際には、このヘイアウでヘヴァヘヴァによる祈祷儀式が行われたといわれます。
偉大な預言者として知られたカフナ・ヌイ、カオプルプルの指示に従って建立されたと伝えられます。

偉大な預言者として知られたカフナ・ヌイ、カオプルプルの指示に従って建立されたと伝えられます。

1891年にカメハメハ2世によってヘイアウが廃止されたのちは、農地として利用され、周りはパイナップル畑になったといわれますが、1962年、国定歴史建造物に指定されて以降、保存状態が改善されました。
1792年(1794年という説もあり)、キャプテン・バンクーバー率いるイギリス船ダイダロス号がワイメア・ベイに寄港。飲み水を求めて下船した3名(2名という説もあり)の乗組員が全身に刺青を施したハワイアンに襲われ殺害されたのち、生贄として捧げられたヘイアウとしても知られています。
プウ・オ・マフカ・ヘイアウにはちょっとしたトレイルコースがあります。海側へ向かって下っていきます。 プウ・オ・マフカ・ヘイアウにはちょっとしたトレイルコースがあります。海側へ向かって下っていきます。 プウ・オ・マフカ・ヘイアウにはちょっとしたトレイルコースがあります。海側へ向かって下っていきます。

プウ・オ・マフカ・ヘイアウにはちょっとしたトレイルコースがあります。海側へ向かって下っていきます。

さらに足場の悪い赤土を下っていきます。ここまでわずか数分です。 さらに足場の悪い赤土を下っていきます。ここまでわずか数分です。 さらに足場の悪い赤土を下っていきます。ここまでわずか数分です。

さらに足場の悪い赤土を下っていきます。ここまでわずか数分です。

ワイメア・ベイを見下ろす絶景ポイントに到着。以前訪れたときよりも雑草が生い茂り、見える景色の範囲が狭まっていました。ワイメア・ベイ周辺には3つのメジャーなヘイアウがあったと伝えられます。

ワイメア・ベイを見下ろす絶景ポイントに到着。以前訪れたときよりも雑草が生い茂り、見える景色の範囲が狭まっていました。ワイメア・ベイ周辺には3つのメジャーなヘイアウがあったと伝えられます。

来たのとは反対側から回ってヘイアウに戻るまで約10~15分です。 来たのとは反対側から回ってヘイアウに戻るまで約10~15分です。 来たのとは反対側から回ってヘイアウに戻るまで約10~15分です。

来たのとは反対側から回ってヘイアウに戻るまで約10~15分です。

ポハク・ラナイ Pohaku Lanai

人気(ひとけ)のないカイアカ・ビーチパークに忽然と現れる奇怪な形の石(ポハク)。

人気(ひとけ)のないカイアカ・ビーチパークに忽然と現れる奇怪な形の石(ポハク)。

ハレイワの町中から約1マイル離れたカイアカ・ベイ・ビーチパークに、不思議な形状の石があります。不思議というか、ちょっと不気味(?)。ウルトラ怪獣や、カルト的人気を持つ1963年東宝特撮映画『マタンゴ』*に登場するキノコ人間を思い起こさせます。コレ、下の石に上の石が乗っかっているんです。2つの石を合計した高さは、12フィート(約3.66m)、外周は93フィート(約28.3m)ほど。
*アメリカでのタイトルは『Attack of the Mushroom People(キノコ人間の襲撃)』。アメリカでも日本と同様、「コワイ」「ファニー」としてカルト的人気があります。
暗闇で見るとコワイかも。

暗闇で見るとコワイかも。

明るい場所でもコワイ。『マタンゴ』より。

明るい場所でもコワイ。『マタンゴ』より。

ハイ、違う角度から。

ハイ、違う角度から。

地元の言い伝えによると、この石は、古代ハワイで漁の見張りに使われていたのだとか。見張り番(漁の占い師)が魚の群れを察知すると、上の石を木の棒で叩き、石の鐘として利用していたそうです。その音がこだまとなって響き、近隣の漁師に知らせたそう。
近くの川から流れ落ちる土壌が混ざるため、カイアカ・ビーチの海水は茶色く濁っています。

近くの川から流れ落ちる土壌が混ざるため、カイアカ・ビーチの海水は茶色く濁っています。

また、太平洋をはるか彼方のカヒキ(ハワイアンの故郷とされる土地。タヒチだという説も)から浮かび、わたってきた、霊力を持つ石だと信じられ、戦勝祈願の供物が捧げられていたという伝説が残っています。
ハワイ語で、ポハクは「石」。ラナイは「征服の日」という意味を持つそうです。

ハワイ語で、ポハクは「石」。ラナイは「征服の日」という意味を持つそうです。

これまでの遺跡&史跡めぐりで、ノースショアの断片的な歴史が見えましたが、ちょっとここでおさらいです。
ワイメア・バレーの園内。

ワイメア・バレーの園内。

ハワイアンがノースショアに移住を始めたのは1100年頃と推定されています。特にワイメア地区は、海(ワイメア湾)から川(アナフル川)へ、そして豊かな土地(ワイメア渓谷)へと連結していた土地柄が、生活の安定と繁栄を約束していました。
19世紀に入ると、昔ながらのハワイアンの生活も、アメリカ宣教師団の出現や、前述の、最後のカフナ・ヌイ(ハワイ古代宗教の大神官)といわれたヘヴァヘヴァの死によって、西洋化の波に押し流されます。
ディリンガム・ブールバードにある名物フラワーショップ、「スイート・レイラニ・フローリスト」。

ディリンガム・ブールバードにある名物フラワーショップ、「スイート・レイラニ・フローリスト」。

ベンジャミン・ディリンガム――いまもその名前が「ディリンガム・ブールバード」という道路に残されています――はマサチューセッツ州ケープコッド出身の、もと船員。14歳で船乗りになったディリンガムは経験を積んだのち、サンフランシスコとホノルルを往復する定期船に勤務します。が、3回目の航海でハワイに滞在中、落馬して足を骨折し、ハワイに留め置かれることに。やがて彼はハワイに留まることを決意。著名な宣教師ファミリー出身の女性と結婚することによって上流社会や実業界へ足を踏み入れます。
サウス・キング・ストリートにあったオアフ鉄道土地会社のメインステーション。

サウス・キング・ストリートにあったオアフ鉄道土地会社のメインステーション。

財産も何もない、ほとんど文無し状態でハワイへやってきたディリンガムですが、先見の明と経営の才は並外れたものがあったようです。その後彼は、ハワイ最大の鉄道会社、オアフ鉄道土地会社(Oahu Railway and Land Company)を設立。鉄道はノースショアまで延び、彼の監督下にあるワイアルアの砂糖きびプランテーション(Waialua Sugar Company)へ労働者を運ぶほか、同じく彼がハレイワの町に創業した高級ホテル(Haleiwa Hotel)へ避暑に向かうホノルルの上流階級層を乗せました。
砂糖きびを埠頭まで、パイナップル(ディリンガムはワヒアワにHawaiian Pineappleを創立)を缶詰工場へ運びました。
ハレイワ・ホテルは1899年にオープン、1943年に閉館。カメハメハ・ハイウェイとハレイワ・ロードの交差点海側に建っていました。(現在「ハレイワ・ジョーズ」レストランがある場所)

ハレイワ・ホテルは1899年にオープン、1943年に閉館。カメハメハ・ハイウェイとハレイワ・ロードの交差点海側に建っていました。(現在「ハレイワ・ジョーズ」レストランがある場所)

この砂糖きびプランテーションの労働力として、中国人、日本人、韓国人、ポルトガル人、ノルウェー人、スコットランド人、のちにはフィリピン人が雇い入れられることに。サーフタウンとして脚光を浴びる前のハレイワの町は、こうした移民が作り上げていった田舎町でした。ハレイワタウンの名物、シェイブアイスも、プランテーションで働く移民たちのおやつとして始まったといわれています。
ちなみにハレイワという名称は、ディリンガムが命名した「ハレイワ・ホテル」が先でした。それまでは広くワイアルアと呼ばれていたこのエリアに、ハレイワ・ホテルが出来たことによって、一帯がハレイワと呼ばれるように。ハレイワとはハワイ語で「house of the frigate bird(グンカンドリの家)」という意味です。
最後に、火山の女神ペレの登場です。

ペレズ・フォロワーズ Pele's Followers

ププケア・ビーチの溶岩で出来た海岸の先端に、ほとんどが10フィート(約3m)以上ある8つの石がたたずんでいます。これらの石、実は、火山の女神ペレによって石に変えられてしまったハワイアンファミリーだという伝説があります。
ププケア・ビーチ側から右奥に見えるペレズ・フォロワーズ。

ププケア・ビーチ側から右奥に見えるペレズ・フォロワーズ。

遠目に見えます。

遠目に見えます。

ププケア・ビーチ

ププケア・ビーチ

はるか昔、ハワイ島へ戻る途中のペレがププケア・ビーチを通りかかりました。それを地元ファミリーに目撃されたことに腹を立てたペレが、ファミリー8人を石に変えてしまったそう。見ていただけで石にされるなんて、運が悪いとしかいいようがありません。(神様のなさることは人間の思考の範疇を越えていますネ)伝えられるファミリーの名前をここに記し、哀悼の意を表することにしましょう。お父さんのパカア、お母さんのヒナ・アルアルモアナ、そして6人の子供たち、クアパカア、カアレヌイ、カアレイキ、ホロホロウア、ホロホロマカニ、オオプハラコア 。
石に変えられた8人はププケア・ビーチの守り神になったとも伝えられます。

石に変えられた8人はププケア・ビーチの守り神になったとも伝えられます。

ご紹介した遺跡&史跡スポットをマップでおさらいしましょう!
すっかりノースショア名物となったシュリンプ・トラック。

すっかりノースショア名物となったシュリンプ・トラック。

長い歴史を持つノースショア。サーフィンやその見物はもちろん、ショッピングやグルメ(シェイブアイスにガーリックシュリンプ!)も楽しいですけど、遺跡や史跡もスゴイってことがおわかりいただけたでしょうか?

以上、ハワイナビでした!

上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

記事登録日:2011-11-17

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